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★AMERICAN DREAM TRIP JUNE 21TH /GTON,DC / PENN QUARTER / FORD'S THEATRE & PETERSEN HOUSE★

★AMERICAN DREAM TRIP JUNE 21TH / WASHIGTON,DC / PENN QUARTER / FORD'S THEATRE & PETERSEN HOUSE★

★2012年6月21日 木曜日/ THURSDAY,JUNE 21★


       ★★WASHINGTON,DC / ワシントンDC★★


         ★PENN QUARTER / ペンクオーター★



             ★リンカーン大統領暗殺事件★

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リンカーン大統領暗殺事件は、南北戦争の最末期、1865年4月14日金曜日(聖金曜日)午後10時頃に起きた暗殺事件で、最初のアメリカ大統領暗殺であった。
エイブラハム・リンカーン大統領はフォード劇場で妻メアリー・トッド・リンカーンらと『われらのアメリカのいとこ(Our American Cousin)』の観劇中にジョン・ウィルクス・ブースに撃たれた。リンカーンは翌朝、1865年4月15日土曜日の午前7時22分にウィリアム・ピーターセン宅で逝去した。



    ★PETERSEN HOUSE / ピーターセンハウス★

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リンカーン大統領が銃で撃たれ、運ばれた宿屋「 PETERSEN HOUSE/ピーターセンハウス 」に移動して観光開始です。(本当はこちらからツアー開始ですが、ストーリー的に紹介しております)


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チャールズ・リール医師を含む付添い人たちは、狙撃されたリンカーン大統領を10番ストリートへ運んだ。リール医師が通りを挟んだピーターセンの寄宿舎に運ぶことを決めたのである。
その際、付添い人の一人であった陸軍大尉がこの煉瓦造り、連邦様式の連続住宅へ向かう道をあけた。下宿人であったヘンリー・サフォードは、何が起こったのかを悟り建物の正面にある階段に立って「彼をこっちへ、こっちへ持ってくるんだ!」と叫んだ。
それから大統領は居間の後方にある寝室へ運びこまれ、彼の身長には十分に満たない程の長さであったベッドの上へ置かれた。



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事件の起きた夜から翌日の朝にかけて、見物人が宿舎内に侵入するのを防ぐため、軍の護衛隊が外を巡回した。群れを成す程の政府関係者と医師達は宿舎内部に入ることを許され、意識不明の状態に陥った大統領に注意を払った。医師たちは、大統領の頭部に入り込み脳を圧迫している、銃弾の傷口に生じていた血の固まりを絶えず取り除いた。
しかし、内外部の大出血は夜を徹して続いた。遂にリンカーン大統領は、1865年4月15日午前7時22分、56歳の生涯をこのピーターセンハウスで閉じたのである。



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 『ABRAHAM LINCOLN DEAD IN THIS HOUSE 
                          APRIL 16 1865 AT 7:22 A.M.』




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アメリカの偉大なる大統領の最期・・・ピーターセンハウスは3部屋あります。




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ここは、リンカーンの妻メアリーが4月14日から15日にかけての夜を過ごした部屋。長男のロバート・トッド・リンカーン大尉もかけつけて、この部屋で待機して過ごした。



                        ★奥の客間★

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陸軍大臣スタントンが事件の調査を始めた部屋。また、さっそく目撃者などの尋問を行い、ブースの逮捕令を出すとともに、事件を全国に伝えた。




                         ★奥の寝室★

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       『 1865年4月15日 午前7時22分 リンカーン大統領 死去 』


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ベットは当時の物ではないが(レプリカで本物はシカゴの博物館に展示してあるそうです)、枕カバーは本物です。
リンカーンは長身(195cm)でベットが短かったため、斜めに寝かされたそうです。治療にあたったリール医師はひと晩中手を握っていたとのことである。


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遂にリンカーン大統領は、1865年4月15日午前7時22分、56歳の生涯をこのピーターセンハウスで閉じたのである。




         ★ピーターセンハウス & カリスマッチョ★

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   P.S.
  MAY LINCOLN PRESIDENT
                SOUL REST IN PEACE・・・






★リンカーン暗殺の真相★

1865年4月14日、この日は、南部を降伏させ北部を勝利に導いた北軍指揮官・グラント将軍がワシントンに帰還した日であった。 この夜のリンカーン大統領の予定は、このグラント夫妻と“グローバー劇場”で観劇するというものだったが、当日になってちょっとした変更がなされるのだ。

上演される劇場が“フォード劇場”に変更された。

当日夕方になって、同行するはずのグラント将軍にメモが届けられた。 その時、大統領もその場に一緒にいたという。 将軍は黙ってメモを読んだあと、「子供に会いにいくので6時の汽車で発たなければなりません。申し訳ありませんが、今夜は同行できなくなりました」と、大統領にドタキャンする旨を告げたのだ。

仕方がないので、リンカーン大統領は護衛役として、まだ若いヘンリー・ラスボーン少佐とフィアンセのクララを同行することにした。

“フォード劇場”のオーナーは、大統領夫妻の来場に歓喜した。 そして、劇場2階のバルコニー席7~8号を用意した。

8号室のドアの鍵が壊れていたこと。二つめは、どういうわけか、7号室のドアには目の高さのところに、おあつらえ向きの覗き穴があった。

当日、7~8号室の警備を担当した警官はたった一人だった。 しかも、警備を任されたのは、ジョン・パーカーという35歳の飲んだくれ警官だった。

事実、この男がドアの前で警備したのは、劇が始まるまでのほんの2、3分だったという。 彼は、劇が始まるとすぐに劇場から出て隣のバーに行ってしまったのだ。

劇の第三幕目が終盤に近づいた頃、犯人のジョン・ウィルクス・ブースは、なんの障害もなく楽々と2階の大統領がいるバルコニー席に侵入した。 ブースは侵入すると同時に、至近距離から大統領の後頭部(左耳の後ろ5㎝のところ)めがけて弾丸を撃ち込んだ。

リンカーンが撃たれた時刻もまた謎のひとつとされており、その時刻はPM10:13ともPM11:17ともいわれている。

犯人は「南部の復讐だ!」と叫んで、2階のバルコニー席から1階の舞台へと飛び降りた。

犯人は舞台の端まで走りぬけ、舞台横のドアから外に出て、そこに用意してあった馬に乗って逃げてしまった。

医師が駆けつけた時、リンカーンの心臓はまだかろうじて動いていたが、命が助かる見込みは絶望的だった。 そして意識不明のまま、1865年4月15日午前7時22分に息を引きとったのである。

暗殺計画には6名の共犯者がいた。主犯ブースと共犯者の一人ヘロルドは12日間も逃げ延びた。最期はヴァージニアのガレット農場の納屋だった。

29名の警官隊に納屋を包囲され、ヘロルドはすぐ出てきたが、ブースは投降を拒否したため、火が放たれ、コーベット軍曹によって射殺された。

問題はそれからだ。射殺された死体を見て、ヘロルドは、「俺はこの男を知らない。これはブースじゃない」と頑強に言い張ったのだ。

ブースの死体はワシントンに運ばれたが、スタントン陸軍長官の命令ですぐにどこかに埋められた。したがって、その死体がブースであるという証拠はほとんど残されなかった。

ところが、納屋で亡くなった男性は別人で、ブースは包囲網を突破し逃げていたのです。その後名前を変え、全米の各地を放浪し、1903年にオクラホマ州のある村で今度こそ本当に自ら人生を終わらせる65歳でした。

リンカン暗殺事件の数々の謎の中でもっとも奇怪なのは、暗殺の数時間も前に「大統領が殺された」ニュースが伝えられていたことだ。ミネソタ州セントジョゼフという寒村でニュースがささやかれたのは、事件の14時間も前のことだった。悲劇の日の朝、ニューハンプシャー州でも噂は広がったし、ニューヨーク州では新聞が記事を発表した。







★リンカーン暗殺の真実★


1934年リンカーン大統領の暗殺は国際的銀行組織の謀略であった・・・

1865年議会への声明で、エイブラハム・リンカーン大統領は次のように述べている。
「わたしには2つの強大な敵がいる。前方の南軍と後方の金融組織である。後ろのほうが、手強い敵だ。」

2度目の就任式から41日後、アポマトックスで南軍のリー将軍が北軍のグラント将軍に降伏してからわずか5日後の4月14日、リンカーン大統領はフォード劇場でジョン・ウィルクス・ブースに銃撃された。このときの負傷がもとで大統領は命を落とす。

それから70年あまりの後の1937年、ブースの孫娘にあたるイゾラ・フォレスターは著書「狂気の行動( This One Mad Act )」で、ブースはヨーロッパの強大な勢力によってこの暗殺に駆り出されたのだと明かした。また、ブースは後にアメリカ当局によって殺されたと報告されているが、実はヨーロッパに逃れ、39歳でカレー市で死去したのだと記している。

やはり70年近く後の1934年リンカーン大統領の暗殺は国際的銀行組織の謀略であったとする申し立てが、カナダ議会の下院でなされた。これを暴いたのは、カナダの弁護士ジェラルド・G・マクギアである。

マクギアは、公的な記録から抹消された証拠を、ブースが死んだとされた後に、彼の裁判に立ち会った大統領護衛官から手に入れた。マクギアは、その証拠からブースが国際銀行家に雇われたいわば傭兵であったことがわかると述べた。彼の語った内容は、1934年5月2日付か「バンクーバー・サン」紙の記事で報じられた。そこには、こうある。
「奴隷解放論者であったエイブラハム・リンカーン合衆国大統領は、政府証券に関する彼の野望を恐れていた国際銀行機関の代表者からなるグループの謀略によって暗殺された。」
当時、何らかの理由でリンカーンの死を望む銀行家グループは一つしかなかった。
リンカーンによる合衆国の通貨計画に反発し、南北戦争中、彼の緑背紙幣政策(グリーンバック、政府発行紙幣のこと)と戦い続けた人々である。

ジェラルド・G・マクギアはまた、リンカーン暗殺の理由は、その国際銀行組織がアメリカに中央銀行を再び設立するためだけでなく、アメリカの通貨を自分たちがコントロールしている金を基本としたものにするためであったと述べている。つまり、アメリカに金本位制をとらせたかったのである。これは、合衆国の誠意と信用のみに基づくリンカーン大統領の緑背紙幣(グリーンバック)発行政策に真っ向から反対するものだった。

「バンクーバー・サン」紙の記事にはジェラルド・マクギアのこういった言葉も掲載されている。
「彼らの関心は、金本位制を確立し、銀行家が金融機関として世界の通貨と信用取引をくまなく支配する権利を握ることにあった。リンカーンがいなくなればその計画を推進することができる。そして事実、彼らはアメリカでその計画を実行したのである。リンカーン暗殺から8年後には銀は廃貨となり、アメリカに金本位制が確立された。




出る杭は打たれる / 才能・手腕があってぬきんでている人は、とかく人から憎まれる。

金は不浄に集まる / 不浄とは清らかでないこと。お金は欲望の象徴でもある。

金は命の親 命の敵 / お金は人を活かすことも殺すこともできるもの。




聞いた百文よりも見た一文 / 話の上での大金より、本当にある小金のほうが価値がある。

悪銭身につかず / 苦労して働いて手に入れたお金でなければ、散財してしまい手元に残らないものだ。

時は金なり / 限りある人生では、時間もお金と同じくらい大切なもの。




 『 YOU CAN CHANGE !!! 』

オバマ~1




P.S.
MUSCLE STORY12 COMING SOON・・・
THANK YOU!!!


PETERSEN HOUSE & TWINS MUSCLE

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テーマ : アメリカ縦断/横断の旅 - ジャンル : 海外情報

2013/03/04 00:11 | ご紹介COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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